岐阜城山上石垣整備構想

岐阜城には世界遺産級の信長の山上石垣が現存するのだ!

「岐阜城山上石垣整備構想」は「岐阜城山上石垣整備協議会」が提唱する、アイデアです。

あなたが知っている岐阜城は本物ですか??

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国史跡岐阜城跡は、年間25万人の観光客をあつめる岐阜市最大の歴史観光スポットです。
標高329mの金華山全体が国の史跡で、山頂には日本初の観光用模擬天守があります。
天守は明治43年に竣工、現在はその二代目になり昭和31年にコンクリートで建造されたものです。

【もっと多く、岐阜城に観光客を誘致したい、その現状と課題】

岐阜城は明治時代後期から注目され、日本で最も早く観光的に整備された城と言っていいでしょう。

特に戦後、山上の模擬天守や展望レストラン、リス村などが新たに建設され、ロープウェイもそのころに開通しています。これら昭和時代につくられた観光施設しかない岐阜城は、本来あるべき城郭遺産の魅力を発揮していないのが現状で、もはや時代遅れなのかもしれません。そのため過小評価され、他の城郭に比べると観光客の伸びが今一つなのです

すべてを凌駕した天空の岐阜城

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(画 香川元太郎氏)

1567年 織田信長は稲葉山城を攻略し、美濃を治めることになりました。

麓には井ノ口とよばれた町がありましたが、信長はこれを岐阜と改めて、稲葉山城を岐阜城とし新たに城を築きました。そして信長は「天下布武」を唱え、戦国時代を終わらせるべく日本を変えていくことになります。

その権力を誇る為のシンボルが岐阜城だったのです。

【すべてを凌駕、これが日本初の近世城郭だ】

当時の城は中世城郭と呼ばれる山城が主流でしたが、岐阜城は金箔瓦の天主や庭園、大規模な石垣、礎石建造物を持つ特別な城郭でした。

このような城郭は当時の日本には存在しておらず、その後造られていく城郭の基本概念となっていく為、これが近世城郭のはじまりとされます

歴史から消された岐阜城

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1600年 関ケ原の戦い

岐阜城最後の城主織田秀信は西軍方についていたため、戦後は重い処分を受けました。

岐阜城は徳川家康により廃城、新たに加納城をつくり加納藩ができました。

【なぜ家康は岐阜城を廃城にしたのか?】

本能寺の変のあと秀吉が安土城を廃城にしたように、信長のシンボル岐阜城は畏怖の存在でした。家康が秀吉の城をすべて壊したのと同じ原理です。

【歴史から消えていく岐阜城】

1601年に廃城になった岐阜城、家康は城阯の稲葉山への立ち入りを禁じ、その後江戸時代二百数十年、城阯は風雨にさらされ木々が茂り土に覆われ次第に荒廃し、明治維新を迎えたころには現在のような山と町に変わっていたのです。

シンボルの復活、岐阜城は観光の中心となった

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明治維新を迎えます。江戸時代岐阜は尾張藩の御料地だったため商業が盛んでした、町の人は更なる発展を考え、金華山の山頂に信長時代の天守を作り、観光を活性化させることを考えました。

【観光に目覚めた岐阜】

明治43年(1910年)日本初の観光用模擬天守を金華山の山頂に造ります。

天守は人気を博し、多くの人が金華山に登り山上からの景色を楽しみ、全国から人が集まる観光の中心となっていったのです。

破壊されていく岐阜城の遺構

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昭和18年 天守が失火により焼失しましたが、昭和31年に二代目の観光用模擬天守が造られます。この時、天守台は積みなおされコンクリートを使った石垣になり、展望レストランやリス村、山麓からロープウェイを通して観光開発が行われ、貴重な石垣が壊されました。現在我々が観ることができるのはこの時代に整備された施設ばかりです。

 

【考察】

現代の城郭遺産でこのような整備はありえないことですが、当時大切だったのは観光用施設の建設でした。言い方を変えると、岐阜城は昭和30年代に観光施設となり、昭和で時が止まったお城なのです。

想いをのせて岐阜城山上石垣整備推進協議会発足

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昭和で時を止めてしまった岐阜城、山麓の信長公居館の発掘調査は進んでいるものの整備計画は遅れています

現在岐阜城で観れるのはコンクリートでできた昭和の施設のみで、壮大な城だった岐阜城が過小評価されているのはこのためです。

全国的な歴史ブーム、インバウンドの影響で城郭が観光の目玉になっているにも関わらず、岐阜城の入城者の伸びは他の城郭ほどではありません。

このような状況を変える為、岐阜城の魅力を向上させたいと願い「岐阜城山上石垣整備推進協議会」が発足しました。

【活動内容】

平成26年2月に発足した岐阜お城研究会を前身とし、平成27年と平成28年には岐阜市でシンポジウムを開催、文化庁中井將胤氏と城郭専門家で広島大学大学院教授三浦正幸氏の講演や、岐阜城の魅力向上のためのパネルディスカッションなどを地元の有識者と共に行いました。

現存する信長の山上石垣

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我々は今年に入り何度か現地調査を行いました。これは山上部にて発見した石垣の一部です。

このような石垣が山上部に多数存在していることを目の当たりにし、当時信長公が築城した際の想いにふれ感動を覚えました。

しかし、山上石垣がある場所へは簡単には行くことができません、一般の登山者が入れる登山道からは逸れていて目にすることができないのです

なんとかしてこの素晴らしい遺構、山上石垣を全ての人に観てもらいたい・・・

資料 稲葉城阯の図

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江戸時代に描かれた「稲葉城阯の図」(伊奈波神社所蔵)

これは江戸時代前期に廃城後の岐阜城が調査され、石垣の高さ長さ広さなどが記されている絵図です。

この絵図を元に、山上の天守台の位置からおおよその配置を特定、現地にて石垣を確認できました。

金華山の精密な測量が可能にした山上石垣復元図

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そんな折、我々は中日本航空が金華山を精密に測量した画像データをいただきました。

この画像データに「稲葉城阯の図」から推測した石垣の位置を書き入れたものがこの画像です。

我々の調査により山上石垣が廃城後415年経った今でも存在しており、およそこのような姿であったと考えられます。注目すべきは、当時織田家の石垣技術はかなり進んでいたと思われ、しかも2段3段とすることでより大きく見えるように考えて設計されている点です。

信長の山上石垣は世界遺産級

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岐阜城の本来の魅力とは築城当時の遺構であり、その後上書きされていく観光施設ではありません。

現在、全国各地の城郭は本来の魅力の底上げを重点的に考えられ整備されています。

もし築城当時のものが完全に失われてしまっているのであれば仕方がないのですが、ありがたいことに岐阜城には残っています、しかも膨大に!

江戸時代に消されたことが、実は遺構を良好に保存する時間になり幸いでした。

 

【世界遺産級の信長城郭遺産】

現在発掘調査中の信長公居館を含め、山上石垣の遺構は大変貴重です。

なぜならば、近世城郭の元祖であり、戦国時代を終わらせた信長の城だからです。

岐阜城だけではありません、信長が自ら築城した城は三つ、他に小牧山城と安土城です。

小牧山城も発掘調査により三段の石垣が見つかるなど研究と整備が進んでいます。

三つの城郭遺産は戦国時代を終わらせるきっかけとなり、近世へと時代が変わりました。

これらを「信長の城郭遺産」とし世界遺産にすることで、その遺構を未来へ残し観光の活性化へとつなげたいと願っています。